ウイイレヤクザ インタビュー
INTERVIEW[2019.11.19]
――この辺でフットサルするっていうと、武蔵浦和の線路沿いとか?

そういうとこも行きましたよ。大宮とか春日部とか、幕張とかも行ったし。あらゆる所に行きましたよ。大会とか練習試合とかで。

――高校で、ガッチリ部活でサッカーやるっていう風にはならなかったんだ。

まあー、もういいかな、って思って。ガッチリ過ぎたから、それはちょっともういいかなって。当時は自分が音楽やるとかは思わなかったっすね。

――でもそこで、例えば本とか映画とかじゃなくて、音楽だったんですね。音楽に対して「掘りがいがある」とは当時から思ってたんですか?

自分が音楽やる、とは思ってなかったですけど……音楽雑誌とか買うじゃないですか。色んな有名アーティストのインタビューとか読んでくにつれて、「何か俺、この人たちの気持ちがすげえ分かる」って思って。それまで、何て言うのかな、「自分に向いてる」っていうのがいまいち分かんなかったんですけど、そういうの読んでくうちに「俺、これ(ミュージシャン)一番向いてるかも」って。向いてるっていうか、「これ、俺じゃん」みたいな感じがありました。

――そういう実感って、10代をやり過ごすのにベストな発見だと思います。「この人は俺と同じ尺度を持ってる」とか、「何か見た時に自分と同じ所にピントを合わせる」みたいなのとか、そういう人を友達でもタレントでもいいから見つけるって、生きてることの実感にすごい繋がるから。

そういうのを発見できる人って、意外と少ないと思うんすよね。大抵の人は、モヤモヤモヤって感じで10代終わっちゃうみたいな。そういう意味では、何か運良かったですね。

――そういう時、シンパシーを覚えたミュージシャンって誰なんですか?

高2か高3ぐらいの時……誕生日に、親から「CD買ってあげる」って言われてタワレコ行ったんですよ、確か新宿の。「これは慎重に選ばなければ」って試聴機をバババッて巡る感じでやってたら……。豊田道倫っているじゃないですか、パラガ(パラダイス・ガラージ)の。「何じゃこれ!」って。聴いたのは当時の新譜の、『しあわせのイメージ』ってアルバムなんですけど。それが、なんつうのかな……その頃から俺、けっこう歌詞重視してたんですけど、この人の考えてることがすごい分かった、みたいな。考えてることじゃないっすね、感じてることっすね。こんな面白い人いるんだって思って。俺それまで、自分と同じように考えてる人が――それも中二病なんですけど――同じ日本にいると思ってなかったんですよ。それがいた、みたいな。
あと、その後に何階か上がって聴いた、Struggle for Pride 。当時の新譜っすね(『You bark, we bite.』)。あれを聴いて「同じ日にこんな衝撃来る?」みたいな(笑)。それも全く同じ感じ方。「こういう物の見方してる人が他にいたんだ」っていう。あともう1枚何だっけな、洋楽の何か買ったんすけど、その3枚を誕生日プレゼントに買ってもらって。それがいま自分の核になってるから、良い誕生日だったなって感じですね(笑)。

――それまでに雑多に当たり外れ引きながら音楽聴いてたから、豊田さんもストラグルも受け止めるだけの素地が出来てたってことなんでしょうね。100円棚漁ってた時に見つけて当たり引いた、みたいのはあるんですか?

ある。Supreme Dicks ってバンドがいて、高校の行き帰りにめちゃめちゃ聴きました。基本インストのバンドなんですけど、風景と合ってるんですよ。「これは俺のノリだ」みたいな。
あっ! そうやって買った奴で、もう一個あります。 D’Angelo の『Voodoo』。「何だこいつ?」と思ってテキトーに買ったんですけど。ジャケが何かもう「ザ・R&B」みたいな感じじゃないですか。 Usher みたいな感じなのかなと思ったら、何かあんな呪術的な感じだから、「何コレ?」と思って。あれはめちゃめちゃ衝撃でしたね。だから豊田と、ストラグルと、D’Angelo っすね。俺の核は。まあ音楽以外にもありますけど。もうちょい後、19歳ぐらいの時に、北浦和公園に美術館(埼玉県立近代美術館)あるじゃないですか。あそこでロシアの……旧ソ連かなんかの展示みたいのがあったんですよ。俺、絵とか全然分かんないんですけど、それでめちゃめちゃ衝撃受けた人がいて。グルジアのピロスマニって画家なんですけど。あれはすげえ残ってますね、今でも。割と近所なんでブラッと行ったんですけど、めっちゃビビッと来て。その企画展自体がめっちゃ良かったんですよね。「現実と非現実が一緒」「ワケ分かんないんだけど、何か分かる」みたいな。ピロスマニはその中でも、観た瞬間にもう自分と波長が合うってのがすごい分かる気がして。

――「こういう風に人間を見ている」みたいなことに対して?

あ、そうそうそう。あと動物も。絵って俺、それしか見てないかも。どう現実を見てるか。だからけっこう長く観たりしますね。普通に30分ぐらい経ってたりする。みんなね、立ち去るのが早すぎる。イヤイヤ、本当に観てる? みたいな。

――「絵の前はパワースポットだ」っていう友達がいて。音楽よりずっと生で観る価値があると思う。油絵なんかだと、表面がどれだけ隆起してるかとか分かるし。画集とか写真で観るのとは別の芸術体験ですよね。

ホント俺もそう思いますよ、マジで。音楽と違って、その時しか観らんないじゃないすか。だから真剣に観る。ピロスマニはそんな感じだったっすね。

――で、大学に入って、初めて軽音サークルかなんかに入るわけですか?

そうっすね。向いてるってことは分かったから、とりあえずやってみようかな、って。楽器の経験は、そん時は全然なくて。当時から「自分で歌いたい」みたいなのはけっこうありましたね。だからとりあえずギターやろう、みたいな。サークル入んなきゃ、音楽やってなかったかもしれないですね。基本的に根性がないから。一緒にやる人がいないとちゃんと弾けてなかったかもしんないですね。

――「弾いて歌いたい」っていう願望があって、「フォークがやりたい」「ブルースがやりたい」みたいな志向とかは当時からあったんですか?

いやー、そこまで考えてなかったですね。ただとりあえず、弾いて歌う、っていう。その頃は……まあ今でもそうですけど、「とりあえずオリジナルだろ」みたいな気持ちはすげーありましたね。初めからけっこう自分で曲書いてたんですけど。ギター始めて、コードを知って、コード知ったら自分で作れんじゃんって。最初は全然形にはなんなかったですけどね。でも何か、やってくうちに形にはなってきて。サークルはやっぱ基本コピーバンドが多くて。コピーもやりましたけど、オリジナルは俺、サークルの誰よりやった自負はありますね。大体ふざけてるだけだったんですけど(笑)。

――「ふざけてる」っていうのは、「感動させたい」よりもまず「ウケを取りたい」っていうこと?

そうそう。でも、3、4年になって先輩もけっこう卒業してって、「感動もウケも両方取りたいな」って思うようになって、そっちの方に興味出てきて。俺、どっちかだけって嫌なんですよね。どっちもあるのが表現だと思うんで。泣けるし笑えるし、考えさせられるし、みたいな。それは今でもずっと思ってるかも。俺のテーマ。

――その頃には、前作の『留守電』に入ってた曲はもうあったんですか?

『トイザらス』はありましたね。あれが最初に形になったやつなんで。

――ホントに!?

ホントホント。あれが一番最初で、「俺、けっこういけるかも」と思って。3分ぐらいのが出来たから「これはもう曲じゃない?」って。本当に最初です、マジでウソついてない(笑)。でもタイトルは『トイザらス』じゃなかったな。何だっけ、忘れちゃったな。

――あれがウイイレくんとまともに話すキッカケになった曲だから、何か感慨があるな。クークーバード(2009年に開業し、浦和~北浦和間の移転を経て2016年に閉業したミュージック・バー)でやったライブ音源みたいの、いっとき YouTube に上げてたでしょ。あれ聴いて「すごい曲だ」と思って感想を Twitter に連投したら、ウイイレくんから「ああいう風に書いてもらったの初めてですよ」って言われた。

あれね(笑)! ありましたね、上げとくもんだな。確かに、話すようになったのそれからかも。コーさん(クークーバード店主)に言われたかも、「こういう風に書いてる人がいるよ」って。

――その前にクークーで、合コンの穴埋めしたけど。シグナル(埼玉県蕨市で営業していたジャズ喫茶。クークーバードと同年に閉業)の常連さんと、クークーの常連がやった合コンの。クークーに飲みに行ったら「ウイイレが来ねえ」つって、場当たりで。

あれね、俺がブッチしちゃったやつ(笑)。

――ウイイレくんは移転前、浦和にあったクークーに行ってるわけだけど、それって23、4歳の時ってことですよね?

23ぐらいですね。大学の友達から聞いたんですよね、出身が南浦和の奴で。通常営業の日に俺だけ行って、それで話して。それで多分「ライブやらしてくれ」って言ったんですよね。

――そのままクークーに通い続けたっていうのは、やっぱり「ここ面白いな」って思ったわけですか?

そっすね。家が近いっていうのもすごいあるんすけど、やっぱり結局2人(店主夫婦)の人柄ですかね。みんなそう言うと思うけど。とっつきやすいじゃないすか。とっつきやすいし……。

――変だし。

変だし、何かノリも合うし。面と向かっては言えないけど、俺はすごい感謝してます、あの2人には。クークーはでかいっすね。

――クークーでやる前から、「ウイイレヤクザ」としては活動してたの?

いや、してないっすね。クークーから。

――そこで色んな人と意気投合して、「虎」というバンドが誕生すると。

そうっすね。始まりはすげーナメた感じでしたけどね。クークーでインストバンド観たんすよね。正直それがあんま良くなかったんすよ、「これなら俺らでも出来るじゃん」って思って。勢いで、客としていたけん(虎のドラマー。ウイイレヤクザのアルバム『留守電』のエンジニアでもある)さんに「インストバンドやりましょうよ」つって。で、コーさんも、あとクークーで会ってたケント(虎のキーボーディスト。真黒毛ぼっくすのサポートギタリストでもある)さんも誘うかみたいな軽いノリでスタジオ入って、それでまあ何かダラダラ続いて……。その頃に、イトシュン(虎のボーカル)が「今曲作ってる」みたいな感じで『私魂』って曲を弾き語りで二人で遊んでる時に聴かされて、「これやべーな」「じゃあイトシュン入れよう」と思って。「俺、今適当にやってるバンドがあるからそれでやろう」つって、それでインストバンドじゃなくなって(笑)。その後に『私魂』の練習の音源を、ケントさんがどりちー(虎のギタリスト。北浦和クークーバードが閉店した直後、同じ場所に「居酒屋ちどり」を開業)に聴かせて、どりちーも「俺これ参加したいわ」みたいな感じになって……っていう流れですね。コーさんはその後抜けましたけど。その頃はどりちーもサラリーマン。なかなか練習に来れなくて。打ち上げだけ来るキャラになってた(笑)。夜11時ぐらいに「仕事辞めてえよー」って言いながら。

――それが今や、虎にホームグラウンドを提供する飲み屋の店主に。

ホントありがたいっすね、そういう意味では。場所はホント重要だと思うんで。場所がないと、あっという間に消えてなくなっちゃうというか。

――そういう経緯でクークーでライブをするようになって『留守電』を作ると決めたのは、「始めたことを形に残しておきたい」みたいな気持ちがあったんですか?

最初は音源とかあんま考えてなかったんすけど、コーさんが俺のケツひっぱたいてくれて。最初はコーさん録音で、クークーで録ってたんですよね。それがダラダラしてるうちに立ち消えになって。せっかくキッカケもらったし、じゃあ自分でやってみようかなと思って。ただ俺、宅録とか全く分かんないんで。MTR すら持ってないし。「どうしようかな、でもケータイあるじゃん」ってケータイで全部録音しようって思って。それで『留守電』。そっからコンセプト作った感じっすね。戦前ブルースがすごい好きなんで……戦前ブルースって、当時の感じがすごい分かるじゃないすか。録音状況もそうだし、ノリが分かるっていうか。コイツこういう奴だったんだなっていうのが、ブルースってすごい分かる。なぜかというと、全部曲が同じなんで。ブルースって全部一緒じゃないすか。同じ曲を色んな人がやってたりするし。余計そいつの色が出るっていうか。何でもそうですよね、落語もそうだしラップもそうだし。そういう感じが俺一番好きだな、そういう感じを出したいな、と思って。それだったら、俺が毎日持ってるこのケータイで録音するのが一番正しいんじゃないかなって。『留守電』の裏テーマは、現代の戦前ブルースを録ろうかなって。そういうテーマっすね、あれは。

――自分の生活なり気持ちなりを歌うっていう意味では、『留守電』はブルースですよね。

ただただ真っ裸で、ただただ丸腰でやろうってのが、あのアルバム。ひたすらリアルに、って感じですね。コンセプト的には。

――ウイイレくんの中で、《生存》っていうのが重要なソースなのかなって感じてるんです。それこそ『留守電』でも「相手が生きてるってことを知りたくて留守電を入れた」みたいなくだりがあるし。ろくでもなくてもだらしなくても生きてる、生きてる相手に歌ってる、っていう。

それはすげー意識してますね。また子供の頃に戻るんですけど、3~6歳ごろ、親か誰かから「死ぬ」って概念の話を初めて聴かされて、それが自分的にめちゃくちゃショックで。「この状態が終わる時が来るんだ、いつか」っていうのがすごい恐くて。今では考えられないですけど、子供の頃、俺めっちゃ臆病で。いちいち色んな事に反応しちゃうみたいな。(概念として死を知ったショックの)影響はめちゃめちゃありますね。これはもう抜けない、っていうのが。今作ってる(セカンド)アルバムもそうだし。

――自分の周囲だと、やまゆり園の事件にウイイレくんが強く反応してたのが印象に残ってもいて。

世間の反応がちょっと薄すぎるなって思いますよね、あれは。戦後最悪の事件なのに。犯人、多分俺とタメぐらいなんですよね。「こいつ、下手したら同じクラスか」とかもすげーある。