ネモト・ド・ショボーレ対談連載
TALKIN' REC TAPES #5ゲスト:フミヤマウチ【前編】
SPECIAL[2015.04.14]
ロックンロール・レーベル「DECKREC」主催のネモト・ド・ショボーレ氏が、交友のある音楽、映画、漫画、演劇…様々な場で活躍する多種多様な人たちを迎えて送る、ジャンルレストークセッション「TALKIN' REC TAPES」。
第5回目のゲストは和モノDJ、音楽ライターとして知られるフミヤマウチさんをお迎えしました。このお二人だからこそ話せる90年代音楽史、削ってしまうのはあまりに勿体ない!ということで、今回も2回に亘ってお届けします。
後編はこちら
フミヤマウチ(以下ヤマウチ):そもそもネモトくんと知り合ったのはいつだっけ?
ネモト・ド・ショボーレ(以下ネモト):それが思い出そうとしてもモヤがかかって思い出せないんだよね。
ヤマウチ:気がついたら普通に喋ってた。そんな感じだね。
ネモト:ヤマウチさんを認識したのは90年代初頭。DJとして知ってたし、ザ・ヘア好きだったし、ザ・ハッピーズの近くにいたし。
ヤマウチ:じゃあ少なくとも俺がDJ BAR INKSTICKで働いてた時か、それ以降だ。
ネモト:だから俺のイメージはかっこいい人って感じ。
ヤマウチ:かっこいい!?(笑)。
ネモト:シーンの中で俺なんかは底辺にいたから、上の人っていうイメージ。
ヤマウチ:上も下もないってば(笑)。当時の自分がどう見られたか?って今まで考えたことなかったけど、まあぶっちゃけ「ザ・ヘアの腰巾着」だったんじゃないかな(笑)。
全員:(笑)
ネモト:そもそもあいさとうさんたちとの馴初めは?
ヤマウチ:学生のときにINKSTICK SUZUE FACTORYにバイトで入ったの。そこでザ・ヘア主催のイベントをしょっちゅうやってたから、その時点で顔見知りにはなったかな。
ネモト:え!ヤマウチさんそっちのINKにもいたの?
ヤマウチ:そう。芝浦のINKSTICKがクローズした後に浜松町に移転するみたいな形で出来たところね。
ネモト:俺、SUZUEに1回出たことありますよ。今UFO CLUBをやってる北田くんと昔やってたバンドで、ディーズメイトとかと出た。
ヤマウチ:え、そうなんだ!たぶん俺、その時もういたよ。入ったのはオープンして半年くらいたってた頃じゃないかな。SUZUEにトマトスを観にいった時にスタッフ募集の張り紙があって、それ見てソッコー応募したの。最初はかわいらしいマッシュルームカットでおとなしく働いてたんだけどさ。
ネモト:その頃から60年代的なものは好きだった?
ヤマウチ:うん。あとマンチェも入ってた(笑)。当時は大学4年生だったんだけどぜんぜん単位取ってなくて卒業できないの分かってたから、なんかやりたいなあと思ってて。音楽業界で働きたい希望はあったから、そのきっかけになればなあと思ってスタッフになったの。で、そんな世間知らずのマッシュルームお坊ちゃんが、なにを考えたのかある日突然スキンヘッドになったのね。
全員:(笑)
ヤマウチ:そうしたら、それを面白がってくれる人がちらほらいて、そこからなんとなく道が拓けた感じ。だから、INKに入って頭剃ったのがすべてのはじまり。
ネモト:二位さん(CLUB Queの店長)も中村さん(CLUB QueのPAさん)もINKSTICKだよね。
ヤマウチ:二位さんは芝浦のスタッフだったから一緒に働いたことはなかったんだけど、中村くんはSUZUEのPAだった。中村くんも俺のスキンヘッド面白がってくれて、それから仲良くなったかな。いまOrgan Barのオーナーの田中テツさんって方が当時、INKのブッキングを統括してて、そのテツさんに気にかけてもらったのがいちばん大きかったなあ。けっこうムチャクチャな人で、ギャズ・メイオールとスカ・フレイムスのイベントの時に「ヤマウチ、おまえステージ上がって暴れてこい」とか言われてさ。テキーラのショットガンをガンガン呑んでステージ上がって踊りまくってる俺を見てゲラゲラ笑ってたりしてた(笑)。そんな感じで樂しく働いてたんだけど、いろんな人と知り合ううちにレコードやりたいなあって思ってSUZUEを2年くらいで辞めて、disk unionの面接に行ってあっさり落ちて。unionのバイト募集に落ちるってよっぽどだよなあって思うんだけど(笑)。SUZUEで働いてるときに「このまま働いてたほうが近道だな」と思って大学も辞めちゃってたからもう、八方ふさがりで。
ネモト:正直学歴関係ないですよね。俺、中卒だもん(笑)。
ヤマウチ:それ知らんかった!でもホントそうなのよね。で、仕事も決まらなくて悶々としてる時に例のテツさんから連絡があって「DJ BARに来ないか?」って。92~93年くらいのことかな。
ネモト:渋谷のDJ BARって、モッズや60’sや和モノのイメージがすごく強い。当時、そういうイベントはDJ BARか新宿JAMでやってるっていう。
ヤマウチ:実際にはそういうイベントは全体から見るとそんなに数は多いわけじゃなかったんだけど、なにせ印象に残るパーティーばかりで。じゃあ他の日はなにかっていうと、ほとんどが学生さんとかいわゆる一般人が主催のイベントで。これがまたお客さん入るんだ。
ネモト:景気よかったですよねぇ。
ヤマウチ:そう。本当に。DJ BAR INKSTICKはDJの小林径さんがプロデューサーだったんだけど、径さんが日替わりのイベント主催者にいちいち連絡したりっていう実務に振り回されるわけにもいかないから、そのための俺だったんだよね。
ネモト:へぇ~、じゃあヤマウチさんはブッキングで入ったんですか?
ヤマウチ:そう。ブッキングって言っても今と違って学生さんが平日に200~300人とか平気で集める時代だったから、ラクといえばラクで。
ネモト:そうだ、多摩美、武蔵美、造形とか。
ヤマウチ:モード、バンタン、文化……。
ネモト:桑沢とか。
ヤマウチ:そういうアート系・服飾系学生さんのパワーに支えられつつ、一方で径さんの「routine」とか橋本徹さんの「FREE SOUL UNDERGROUND」とか俺らの「自由に歩いて愛して」とかのイベントがあるっていう。
ネモト:大きなくくりで言うと、60’s系のイベントを支えてたのはそういう学校の子たちだった。200人いたら100人は美大生って言っても過言ではないくらい。
ヤマウチ:そうなんだよね。いわゆる渋谷系とか、当時の音楽カルチャーを支えていた最大の功労者は彼ら彼女らなんだよね。今はほとんど触れられていないけど、当時の学生カルチャー調べるといろいろ見えてくるのに。
ネモト:そういう子たちは、ただライブハウスやクラブで騒ぐだけじゃなくて、そこに存在してる自分たちのスタイルとかもこだわってたイメージがある。
ヤマウチ:自分たちが遊びたい場所を考えて、好きなバンドやDJを呼んで、実際にイベントっていう形にしてお客さんめちゃくちゃ入れる、っていうことを平気でやってたからねえ。面白い時代だったけど、あれは二度とないなあって思う。