ライブハウス特集 下北沢CLUB Que 二位徳裕インタビュー
SPECIAL[2013.07.17]
このサイトをチェックしている方なら一度は訪れているであろうライブハウス。全国各地様々なライブハウスの、歴史やこだわり、特色などをその店の店長さんにお話を聞きながら、不定期でご紹介していきます。
皆さんがライブハウスに行く楽しみが増えたり、このライブハウスで演奏してみたい!なんてきっかけになったらと思っています。

第1回目は下北沢で19年の歴史を持つCLUB Que。
その名物店長である二位徳裕さんにお話を伺ってきました!
取材中何度も出てきた「めんどくさい人に会いたい」という言葉の意味とは?
●まず始めにCLUB Queの成り立ちを教えて下さい。
二位:1994年10月1日、VENUS PETERの沖野俊太郎を皮切りに始まりました。その前に俺は90年から94年1月まで屋根裏(下北沢)にいたんだけど、91年からU.K.PROJECTマターでオムニバスのCDを作ったりしていて。その時に出したのがTHE COLTSとかハイスタの前身とかthee michelle gun elephantとか真心ブラザーズの桜井君のバンド・びっくりしたな、もうとかだったんです。だからCLUB Queの歴史は実はそのあたりから始まりますね。
●豪華ですね。
二位:今思えばね。当時は全然人気がないなかで。5バンド決まってあと1バンドどうしようっていうのがミッシェルか怒髪天かって感じだったんです。
●凄い2択(笑)。
二位:なんだけど、色々あって93年の終わり頃もう音楽の仕事は辞めようかなと思ってたんです。そんな時にUKPの遠藤幸一がまた来て、「ライブハウスやろうとおもうんだけど。二位君やらない?」って。「俺の役職は?」って聞いたら「何でもいい」ってなったから「じゃあやる」って。
●それで店長になったんですね。
二位:店長兼ブッキングですね。
●屋根裏の時は?
二位:いっしょです。その前にインクスティック芝浦っていう2階建てのライブハウスにいて、22歳頃。まず1階のお客さんむけのドリンクをやってて、ちょっと出世して「2階の関係者のドリンクやれ。少し早く来い」って言われて、そしたらねずみ取りに捕まったねずみを運河に沈めて殺すっていう世知辛い仕事を2年やりましたね。その時はバンドもやってたから自分のバンドを広めたいがためにライブハウスで働きだして。で、インクスティックが終わるからどうしようってなって、使ってた下北のスタジオの面接を受けたら「インクにいたならブッキング出来るだろう」って言われてしたこともないのに「出来ます」って言っちゃったの。そこから始まったんだよね。

●二位さんのライブハウス人生の本格的な始まりですね。Queを始める時は遠藤さんとはどういうライブハウスにしようって話だったんですか?
二位:特に具体的な話はしてないんですけど、屋根裏が打ち上げが出来なかったから、打ち上げが出来て少し飲食を充実してっていうことと、それまでのライブハウスって普通の人が行きづらかったじゃない?
●怖いイメージありましたよね。
二位:それを払拭して色んな人が来れるような感じがいいなと思って。屋根裏のロックな部分とインクのお洒落な部分をミックスしたようなやつが出来たらいいなと思ってた。それにその頃ってお客さんが座っているような状態だったんだよね。
●Queがですか?
二位:屋根裏がね。それを立って貰うにはどうするか? ってことを真剣に考えてた。あと周囲への苦情対応。落書きとか張り紙とか。
●ミッシェルのライブも座って見てるんですか?
二位:みんな座ってたよ。ライブハウスの縁に体育座りしてた。
●信じられないですね(笑)。
二位:インクにいた頃はホコ天やイカ天も重なって凄い盛り上がってて、終わると同時に吹きすさぶ風になっちゃったの。だから屋根裏でブッキング始めた頃、いいバンドはそこそこいてもライブハウスに本当にお客さんのいない時期で。今よりもっとひどい超砂漠時代。でも今思うと良かったのはライブハウス少なかったし、ロフトやラママに出られないようなバンドがガッて集まってたんだよね。だからいっつも一緒にいた感じなの。酸いも甘いも音楽以外のことも知っていて人柄を見ながらブッキングすることが出来てたのは良かったなって思う。今日がこうだから3ヶ月後はこうしようねって、バンドの状態を見ながら的確に組んでいけた気がします。
●理想的ですね。Queでブッキングするようになってからは屋根裏でブッキングしていたような人達にも出てもらうようになったんですか?
二位:そう。Queでやるようになったから、屋根裏の社長や…ね。どれだけ斜めに見られたか。
●(苦笑)
二位:怒髪天もいたしミッシェルもいたし、the pillowsやスキップカウズや真心の人達とか、ビバヤングやってる倉山君とか逸材がいっぱい転がってたんですよ。Hi-STANDRDの横山くんなんかも働いてたし、そんな中で力つけてくるんですよ。アイデアとバイタリティも、その分あんまり演奏出来ない人もいたかな(笑)。

●(笑)。情熱が違う部分に注がれていたんですね。オープンしてからのQueはどうだったんですか?
二位:開けてビックリ。
●最初からお客さんも沢山で?
二位:そう。何だったんだろうね。燃料はあったんだけど着火剤がなくてぐずぐずしてたとこに、たまたまQueが出来て着火剤になったのかなぁと思うんだけど。それまで人気なかったバンドもQueでやるようになったら突然人気が出たりして。テレビとかも同時に下北に注目しだして、所ジョージさんの番組の収録があったり。その頃新しい動きが下北にあるぞって見えたんだろうね。本当に取材が多かった。そこは才能とかよりは運もあったのかなって。
●その頃下北には他にどんなライブハウスがあったんですか?
二位:70年代の終わりにLOFTが出来てブルーハーツとかジュンスカとか呑んでて。屋根裏になる前にロサンゼルス・アンチノックって名前でできたんだよね。渋谷の屋根裏がなくなってから86年位に屋根裏って名前に変わって、U.K.PROJECTも青山から下北に越してきて93年位からGARAGE、CLUB251、シェルターと出来て、94年にQue。直後にKOGA RECORDSとかスマイリーズも出来て。
●ちょうど下北に動きがあった頃なんですね。オープン当初から続いているイベントはありますか?
二位:VIVA YOUNGとGetting Betterと夏ノ陣みたいのかな。夏ノ陣は3周年ころかな、この調子で行けば全部2マンで組めるぞっていう時があって、翌年からは意地でもそれを続行(笑)。
●(笑)。
二位:2マンで並べられるライブハウスそんなにないでしょ?って1ヶ月位やって、それを翌年から夏にやろうって夏ノ陣になった。

●二位さんがブッキングする時の拘りはありますか?
二位:あったりなかったり、凄く拘ってたり全然なかったりするんですけど、両方あっていいなと思ってて。拘りって好きなものじゃないですか? そうすると自分が大好きなものは目線も高くなっちゃうし、こうじゃなくちゃいけないっていうのも出てきちゃうから、当時はそれは他人に任せたいって思ってた。それで自分はそれほどでもないというか初めて出会うタイプの人とやりたいなと思ってたんですよね。
●そういう人達とどういうことが出来るかな?ってことですか。
二位:そうそう。だから真心の桜井君とかは自分の音楽の範疇じゃなかったんだけど、「びっくりしたな、もう」には本当にビックリして。大袈裟に言うとそれまでロックって革ジャンみたいに思ってた人だから。大学生が遊び半分でバンドなんかやってるんじゃねぇよって思ってたのに、学生凄いぞって思わされちゃったり、あんなに飄々とやる中で音楽の楽しさを根底から教えられたっていうか。
●まだ早稲田の学生だった頃ですか?
二位:そう。上手いし人気あるし独特だし。桜井君に会ってなかったら俺結構違うかもっていうくらい価値観変えられたのです。

●二位さんがブッキングしてて、気になるのはどういう人ですか?
二位:多分俺、接してて面白い人に一生懸命になるっていうのがあって。それが面白い人を呼んで面白いことになるっていう図式で、段々その音楽も好きになるっていう。もしかしたらこれは邪道なのかもしれないし、「ちゃんと音楽見て下さいよ」って言われたら「すいません!」ってなるんだけど。でもある意味ね、自分が好きな音楽を持ってやってきた人は二番煎じに見えちゃうんですよ。だから好きじゃない音楽持ってる人にこそ興味を持とうっていうのがあってね。だからQueが出来た当時はオアシスとかブラーが流行ってて、好きになっちゃまずいから俺は絶対に聞かないようにしようって思ってた。
●(笑)
二位:当然聴こえてくるけどレコードは買わない。それを聞いちゃうとその手のバンドを好きじゃなくなっちゃうかもしれない。そうやって聞かないでいれば、新しく出会えたバンドに新鮮な気持ちで向き合えるから。だから音楽って知ってればいいってもんでもないのね。
まあでも普通にマニアックに知ってることの方が凄いんだけど、感性という部分では話が違うかも。
●なるほど。
二位:音楽的な部分を個人的趣味で言えば、八十八ヶ所巡礼とかに俺が興味持つわけないんですよ。ただ人柄面白かったし聞いたことないタイプの音楽だったし、凄いことは間違いがなかったし、そういう人に興味持つんだよね。オリジナリティのある特殊な人種だってことの方が大事かな。そうするとこの音楽人に知らせたいって言う感情が湧くの。好きだけだとしまっちゃいたくなるところを広げたくなる感情って不思議ですよね。