NOVEL[2017.06.15]
NOWHERE
Vol.03 黄金町 試聴室その2

この小説はフィクションであり、登場するミュージシャンも架空のものですが、実在のライブハウスやミュージシャンと無関係ではありません。

 冬にこれほど仕事があるのは珍しいと、忙しさにかまけているうちに、明けたともなく年が明けた。休みだからという年末年始の酒の誘いも、相手との世事への立ち向かい方の違いが肌にかかるようで、事務的に断っていた。そのうち一月も終わっていた。
 二月に入ってようやく一息つき、気の置けない友人と差しつ差されつしていた時、黄金町試聴室の移転の報を聞かされた。立ち退きの件については聞き覚えがあったが、四月いっぱいでの閉店が決まり、新店舗まで定まったとは知らなかった。
 予定のない平日の休みが、ちょうど近づいている。最後に一杯でもあそこで飲みたいと思い、その日出る三組の出演者の誰の名前にも見覚えがなかったが、すぐに予約のメールを打った。その間に、友人に肴を平らげられていて、もつ煮とマグロ納豆、清酒を頼んだ。ガード下の安酒場は、カウンターの大鍋と、酔客の躰とから溢れる熱に満ちていて、わざとらしいまでに暖かかったが、「あの店がなくなる」という報せは、未踏峰の氷のような冷たさを胸に貼り付かせた。

 ジャック&ベティで映画を観て、開場までの時間を潰した。予報を観て用意はしていたが、日が沈むと、風が吹き始めていた。骨に沁みる冷たさだった。タイ映画を観たせいで、寒さに備える心持ちが失せていたせいかもしれない。大岡川を歩いて、黄金町の風景を心に留めようかなどと思っていたが、そんな余裕はない。襟を固く締めて、足早に会場へと向かった。
 入口にハートランドの看板が出ていたが、冷たい酒は、今は飲みたくなかった。受付で入場料を払い、日本酒と少しのおでんを頼む。出汁を啜り常温の酒を舐めると、ようやく人心地がついて、センチメンタリズムが今日僕をここに連れてきたのだということが思い出された。食器をカウンターに返し、店内を見て回り始める。
 ステージの前まで並んだ椅子。カウンターの近くには、落ち着いて飲み食いできるようにテーブルも出ている。天井が高いことが、頭上に線路が走っていることの現実味を薄くしている。フロアのど真ん中には柱が立っていて、柱の四面ぐるりが棚になっている。まさしくノンジャンルといった揃えで、上部にCD、その下に本が並ぶ。本と一口に言っても、小説やマンガの単行本もあれば、ノンフィクションの類もあるし、DVDが並んでいる一画もある。うずたかく積まれた情報の山。そういえば、よもやま話の「よもやま」は「四方山」と書く。  何の気なしに棚を眺めていると、山本直樹の『フレイクス』の文庫を見つけた。タイトルは知っているのに、見覚えのない装丁だった。ページをたぐってみたが、やはり収録作は全て読んだことがあるものだった。他の単行本に集成されたのを読んだのだろう。どこから出た文庫本かと確かめてみると、シュベール出版からだった。思春期の頃、至極限定的な意味でお世話になった出版社だ。なぜ今夜再会を果たしてしまったのか。  マスターピースと、愛すべき佳作と、何だかよく分からないものの混在。その中から懐かしいものを見つけ出すのは、ひとの物置で最近知ったものを見つけるように楽しかった。大瀧詠一の『All About Niagara』、ザ・バンドのセカンド、コンビニ版の『包丁人味平』、様々な三国志モノ――いつ知ったとすぐに答えられる強い記憶。安達哲の『さくらの唄』の文庫を見つけた時などは、首筋に震えが走った。エロ本の記憶よりも赤く頬を火照らせる漫画だ。  開場して間もない割に、人の入りは悪くなかった。出演者の名前にこれっぽっちも見覚えがないのだから、今日の公演は相当ニッチなのではないかという勝手な考えでいたが、実は名の知れた人が出るのだろうか。もしくは、まだ他で名が知れていなくても、ここでは確たる人気のある出演者か――自分の博識を信じたいわけではないが、この可能性は大いにありえる。  そうこうしているうちに、一組目の演奏が始まろうとしていた。僕は適当な位置に立って、残り少ない酒にちびちびと口を付けた。  出ている機材から見当はついていたが、ソロのようだった。歳の頃がよく分からない男が、小さいシンセ(塗装が施されていて判然としないが、マイクロコルグだろう)を別の機器に繋いで、弾いた音をループさせている。飾り気のないパーカーにジーンズといういでたちが、いかにも当節風の電子音楽を好む、という風情だった。服より楽器の方が派手というのも、それらしいと言えばそれらしい。  即興のようにも、きちんと曲があるようにも思われた。マイクも出ているので歌が入るのかと思ったが、それはMCにしか使わない。MCが無難だったことに興を削がれたためか、単にメロディに味がないせいか、音の反復に必然性を感じられなくなって、じっと聴くのが辛くなり出した。店の上を走る電車の音の方が、むしろ味わい深く聴こえてしまう。そんな効果を狙った演奏であれば非凡と言えるが、そういう風でもない。グラスを乾すと、暖かいものを摂って腹が減り始めたのが分かった。再びカウンターへ赴いてメニューに目を走らせ、生ビールとメキシカンライスを頼む。メキシカンライスがいかなる食べ物かよく分からなかったが、きっとピリ辛でトマト味のご飯だろう。
 窓際のテーブル席に座っていると、程無くして料理が届けられた。おおよそ考えていた通りのものだったが、目玉焼きが乗っているのと、ハバネロソースの瓶が添えられているのが食い気をそそる。プラスチックのスプーンが、不思議な郷愁を誘った。  あらかじめ黄身にハバネロをひと振りして食べ進めていき、時々ビールを啜る。スプーンが黄身に辿り着く。黄身の輻輳的な味が口に広がり、ハバネロが味ごと舌を刺す。そうしながら何気なく聴いていると、今も続いているシンセの独奏が、気の利いたBGMのようにも思えた。僕は自分の振る舞いを独善的に感じながら、安らいだ気持ちが誰にも侵されずに起こっていることを優先して、スプーンを動かし続け、耳をなおざりに働かせた。  ふた組目もソロのミュージシャンで、アコギの弾き語りをする女性だった。歳は三十代半ばごろか、ビッグシルエットとも民族風とも言える感じの、ゆったりした服を着ている。何をして暮らしを立てているのか見た目から想像できないところが、良いな、と思えた。ミュージシャン、特にシンガーソングライターには、手の届かない謎を持っていてほしい。  酒、ビール、酒の順に飲むのは不恰好だと思いながら、また日本酒を頼んでいた。久しぶりの休みと言っても、酒は暇を見て飲んでいたから、酔いが放埓になるということはなかった。順逆を弁えない飲み方をしても、人並みの足取りで帰れるだろう。  アコギを見たら、度数の低い酒を飲みたくなくなった。そういえば酒を飲み始めた頃から、フォークや独奏を聴くのに、ビールや酎ハイを供にするという習いがない。  供か、と思う。感じるままに何かを感じることは難しい。何かを好ましく思えるかどうかは、その時々の血中成分にたやすく左右される。そして、音楽をただ聴くのはことさら困難だ。視覚が意識を占めがちな人間にとって、音楽は無意識を襲うために、バイオリズムによる評価のぶれが激しい。感覚の狂いを直せるのは、己ではなく、供となるものだ。  この店はいつも一服の酒や茶のように、心をほぐした。ほぐれた心は、琴線に触れない音楽を素直に興味から突き放したが、好ましいものを自分の印象の内へまっすぐ招じ入れるのも助けた。僕たちはこの店の中にあって、この店を鑑賞の供にできた。そう感じられる会場は多くなく、この店は文字通り有り難かった。  女性の演奏が始まった。ギターも歌もそれほど上手くないが、声が良い。最初の挨拶で聴けた地声に近い、しかし歌になじむよう鍛えられた声だった。日本語のまろやかな韻律をあえて淡く聴かせる乾いたメロディが、ことのほか素晴らしい。こんな衒いのない素晴らしいメロディを書ける人が、平日にライブをしているのか。  いや、この旋律には聴き覚えがないかと考えを巡らせて、これはシビル・ベイヤーの『トゥナイト』のカバーだと気付いた。よく聴いてみれば、ギターのアレンジはほぼ原曲に近い。その後もジミー・キャンベルの『マザー・ボーイズ』、ニック・ドレイクの曲(『ピンク・ムーン』の曲でないのは分かるが、タイトルが出てこない)などのカバーが続いた。  堂に入っている。人の歌をうたいながら、表現がオリジナルであることに疑いが持てない。日本語には、主語を省いても語りとして運動する力があるが、彼女の歌はそれを宿していない。自分の母語を聴いているのに、箸でつまむように意識しないと、意味を掴めなかった。つまみあげたものも土のように砕けた。残るものがなかった。  ディランの『おれはさびしくなるよ』が始まって気付いたが、彼女の詞は、原詞の訳ではない。そらで歌える歌なので、よく分かる。「lonesome when you go」に相関するフレーズが、あるともないとも言える抽象的な詞だ。ベン・ワットのバージョンに近い歌い方が、また良かった。意味を考えさせるのではなく、意味を響きとして聴かせている。  次はキャロル・キングの『ソー・ファー・アウェイ』だった。ふと思い立ち、本棚に目を走らせ、再び『さくらの唄』を見つけると、上巻を手に取って読み始めた。この漫画を読んだのは、ちょうどキャロル・キングとかニール・ヤングとかを聴き始めた頃だった。
 案の定、音楽と漫画との刺激を混ぜることで、制御下の錯乱に入ることができた。今いくら持っているとか、仕事の〆切はいつだとか、実際的な判断が体から遠ざかっていく。懐かしいメロディとストーリーは、倦怠期の恋人の愛撫のように僕を刺激し、自白剤のように神経を鈍麻させた。  連載初期の絵柄はこんな風だったかと思いながら、居た堪れないドラマとファニーなエロ、花よりも儚い青春のきらめきを、滑るように読んでいく。爪先を持ち上げては下ろし、リズムを取る。そのうち視覚と聴覚が合わさっていき、赤と青のセロファンの重なりに紫が宿るのと同じように、新たな感覚が生まれかける。今、僕は少しだけ、漫画を聴きながら音楽を読んでいる。酒がその錯覚を助けた。  ジョニ・ミッチェルの『ア・ケース・オブ・ユー』が始まった。切ない旋律に感傷をあおられ、震えて読まずにはおれない下巻に指が伸びかけたが、動揺を恐れて思い留まった。僕は上巻のラストを――主人公が学校のマドンナと言葉を交わす眩しい場面を――ゆっくりと繰り返して読んだ。  また酒を頼もうとカウンターに並んでいると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、大学の後輩が、驚きと笑いが均衡した顔で立っていた。 「おお、久しぶり」 「どうもっす」  突然の再会にこちらも驚いたが、後輩の趣味を考えれば、黄金町や神保町の試聴室で会うことは格別意外なことではなかった。彼はビールの小瓶を持っていた。僕はまた日本酒を頼み、儀礼的な乾杯をした。仕事帰りなのだろう、彼はスーツ姿だった。先程まで姿は見えなかった。コートを脱いでいない。今しがた駆け付けたという姿だった。 「誰、観にきたんですか」 「いや、誰も知らないまま来た」 「えっ、そうなんすか」 「ここが移転するって聞いて、四月までに来れるか分かんないから、来れる日に来とこうと思って……。そっちは? 仕事帰り?」 「はい。先輩は今日、《休憩》っすか」 「休憩……ああ」  止めようのない笑いがフッと吹き出た。完全にフリーで仕事をしていた頃「休憩みたいな感覚で休日を設けている」と、彼に話したことがあった。かつての自分のことばが滑稽だったのと、それを彼が覚えていたこと、両方がおかしかった。今はバイトとフレックスの中間のような形態で出勤する仕事と、直接依頼を受ける仕事の半々で生計を立てている。《休憩》の話をしてから紆余曲折があったのだが、トリが始まるまでの猶予とか、今の酔いの回りを考えると、説明を組み立てるのが面倒臭かった。 「まあ、休みは休みだよ。今度飲もうよ、色々おもろい話あるから」 「はい、是非。今はどんなの訳してるんですか? 前みたいな、インディーゲームの日本語パッチとか……」 「いや、あれは単発の仕事だったから。今のメインは、アダルトグッズの取説とかかな」 「えっ、イリーガルな奴すか」 「いやいや、薬とかじゃないよ、大人のオモチャ的な」  自由に出勤して従事している仕事というのが、取説の訳のほうだ。翻訳の他、説明書の簡単な紙面構成とか、商品の撮影、撮ったものの編集もしている。零細貿易会社にいながらにして、仕事の感覚としては編集プロダクションのそれに近い。 「あとは歌詞とかだけど、何つうか、また訳だから、結構難しいんだよ」 「またやく?」 「色んな国の無名な人の盤を個人で流通させてる、謎のバイヤーがアメリカにいるのよ。データじゃなくて、CDとかカセットとか、フィジカルで。その人が日本の個人店とかにも商品流してて、そのとき使う歌詞カードの訳を俺がやってんの。まずアメリカ国内で売るのに英訳を作ってて、それを元に俺が和訳するんだけど、ホントに色んな国のがあるから……」 「そっか、色んな言語の英訳したのが、先輩に回ってくるわけですね」 「そう。たぶん訳者もバラバラで、プロじゃないし。毎回ニュアンスを汲み取るのが大変でさ」 「色んな国って、例えば?」 「イランとか、モザンビークとか」 「マニアックだなあ」 「アイスランドとかアルゼンチンとかのも扱ってるけど、日本には回さないらしい。日本へのラインは他にあるからって」 「あー、なるほどって感じですね。でも個人でそういうのって、凄いですね」 「日本でもDIY精神でやってる人いっぱいいるけど、みんな頭おかしいよな。だから好きなんだけどさ」  酩酊が細かい情感を全て無視させて、「頭おかしい」という少し的外れな言葉を気さくに遣わせたが、誤謬の恥ずかしさはそれほどなかった。  現代では、万人が危機対策を強いられている。つまるところ、危機対策の本質とは、しない方がよいことをしないという合理化であり、現代の難しさのゆえんは、しない方がよいことがいかに多様であるかが、強調的に現示されていることにある。  考えが異質な人たちは、その異質さゆえに非効率を採用し、しなくてもよいことをする。彼らの試みの全てが成功するわけではないが、そこに無二のかたちが生まれることはありうる。無二のかたちとは、芸術の理想のひとつである。それを期待できるからこそ、「頭おかしい」で一括りにしてしまった人たちのことが、僕は好きだ。そういった人たちの発したものがこびりついた場所のことも。  トリの準備ができたのだろう、アンプから挨拶が聞こえた。名前を名乗ったようだったが、後輩との話に注意を傾けていて、全く聞き取れなかった。後輩は空き瓶をカウンターに置き、ステージに近い場所へ移っていった。後を追うのは何だか情けなかったので、空いていた後列の椅子に座った。  若そうな男性二人の、エレキギターのデュオだった。二人とも座って演奏している。片方はどう見てもBボーイだ。もう片方は見た目も機材も轟音バンドのギタリストという感じだが、抽象的な弾き方は全くしない。二人とも演奏が丹念で、抑制が利いている。どちらもが歌う。Bボーイは時々ドラムセットに移り、簡単なパターンを叩いた。元からユニットであるようでも、ソロの歌手がデュオを組んでいるようでもある。しかし、この二人でなければ生まれないものの匂いは、濃密に漂っていた。  歌う方がリズムギターの、歌わない方がリードギターの役割を担うのは当然と言えば当然だったが、ソロのぶつけ合いをしながら手薄な音域が生じない間奏部には目をみはるべきものがあった。演奏と同様、どちらの歌も煽情的ではなく、どちらかのギターがひずんでも、歌声は変わらず静かだった。  僕の意識を、歌声が《押した》のが分かった。その一瞬だけ、確かに眠っていた。《押された》方に進み続ければ、熟睡に至っていただろう。深まった酔いは、意識を無重力へと放り出すものだ。どんな刺激にも慣性をつけられてしまう。  夢うつつに聴くところに、深甚な快楽のある音楽だった。覚醒と眠りのあわいを、どちらにも傾かないまま、燕のように直進する不思議な眠りを、僕は長い時間眠った。  休前日でないことを考慮してか、アンコールはなかった。物販で音源を買おうとして、トリのデュオが「関東近郊」というユニットであることを知った。ネーミングセンスを全く感じなかったが、演奏を思い出せば買う気が失せることはなく、出たばかりだというファーストアルバムを買った。盤名や曲名には、綺麗なものとか面白いものがあるのが救いだった。後輩は彼らのファンだったそうで、もう売ってないけど最初のCD-Rも良いんですよ、今度貸します、と言ってくれた。  関東近郊の二人から、この前の七針にも来てくれてましたよね、と後輩が話しかけられたのをきっかけに雑談が始まり、僕も会話の周縁に立つことになった。そのうち終電の時間が近づいてきたので、乱暴にならないよう会話に割って入り、挨拶を済ませると、店を出た。  いくらか弱まった風を浴びた時、厳粛な別れの実感が心を内側から突き破り、僕を振りかえらせた。  新しい場所で、新しい営みが始まる。今以上のものが生まれ、失われて戻らないものがあるだろう。いつも僕たちには、善いものをことほいで、悪いものを埋め去り、中間にあるものは善い方へ寄せていくことしかできない。そして、決然とした始まりや終わりなしに、そのことを考え続けてゆくことができない。  この店は、僕の事情と無関係に、場所を移す。そのことを考えているだけで、年かさの人から優しく何かを諭された時のような気持ちを感じていられた。火を分けてもらったような気持ちを。移転までにもう一度来たいと思いながら、何故かそうしたらこの火が絶えてしまいそうな不安もあった。この戸惑いを、なるべく維持してゆきたかった。  黄金町駅で、京急の各停に乗る。他にも経路はあるが、横浜駅で東海道本線に乗り換えるのが一番楽そうだ。ホームで買った熱い緑茶を飲んで、眠気を払った。  終電に乗り込むといつも、日にちを本当の意味で別つのは、日付や時計ではないと思い出すことができる。こういう夜が心の中の絵画を修復し、神の宿って久しい細部をあざやかに蘇らせ、僕がこれまで見てきた全ての残酷と官能を延命させ続けてくれる。横浜駅では、平日の深夜によくもまあ、と思うほど多くの人とすれ違った。僕はその人たち全員が哲学と審美眼を持っていることを考え、自分の矮小さよりも強く、世界の厖大さを感じようとした。
日ノ出町 試聴室その3 〒231-0033 神奈川県横浜市長者町9-159 第1田浦ビル2階 http://shicho.org/s3about/
オオクマシュウ
野良小説家。埼玉在住、うお座のO型。でかいので、待ち合わせ場所として重宝されている。最初に買ったCDはミスチルの『I'LL BE』、最初に買ったレコードはア・トライブ・コールド・クエストの『Jazz(We've got)』とRUN DMCのベスト(たぶん)。

写真はライジングサン・ロックフェスティバル撤収時のひとコマ。物々交換を終えて村に帰る途中とかではない。

・twitter
Vol.1 Vol.2 Vol.3