横沢俊一郎『ハイジ』インタビュー
INTERVIEW[2018.07.31]
――横沢さんの音楽はローファイと形容されることが多いと思うんですが、ギターも意図的にすごくチープな音にしてますよね。ローファイは愛好家が多いジャンルだと思いますが、ライブで観た時に、ジャンルとしてのローファイを目指しているというより、ローファイに聴こえた時にどう気持ちいいとか、どういう印象を持たれるということを意識しているように思えました。

なんというか……。好きなジャンルみたいなものがないんですよ。何かもう、全部断片的に好きなんです。アルバム単位で好きっていうのもないし、「曲全部好き」みたいなのは本当に少なくて。曲の中でも「この部分が好き」とか。そういうものの中で、ああいうギターの音が、今は好きというか。前は違ったし。ローファイだから良い、って風には思ってなくて、この間のライブではああいう風にしましたけど、意図してる部分としてない部分があって。その辺は色々コントロールできるようになったらいいなと思うんですけど。今ある限られた範囲の中で、やれることをやってます。今持ってるもので一番人や自分が楽しくなれるのはああいう音だ、って感じでした。

――確かに、仮にハイエンドな音響でやれるとして、ああいうアプローチばっかりするという風には見えませんでした。

ハイエンドにできるんだったら、めっちゃハイエンドなことやりますよ。宅録やってるのも今のベストっていうだけで、ティン・パン・アレーみたいな環境にすごい憧れがあるし。そうなれるために色んな楽器を練習してるんですけど。やったことないからセッションはできないんで、セッションもやりたいんですけど。経験豊かになりたい。

――荒井由実の『ひこうき雲』のマスターテープを聴く番組で、ユーミンが「今の若い宅録のミュージシャン可哀想ね」みたいなことを言う一幕が……。

いや、「ホントだよ!」って思って! あれ観た時に! 「本当にそうなんだよ、だから何とかしてくれよ」って! 本当に羨ましいんだから~、助けてよ~、っていう(笑)。自分にその資格があるのかは分かんないけど、そうなったらいいな、っていう。だから今そういう準備を。

――貴族の遊びを見ているような番組でしたよね。「16チャンネルのうち2チャンネルだけに絞ってください」とか。

物価も上がって、あの当時に比べたら生活水準良くなってるはずじゃないですか。親の話を聞けば、ボットン便所とかがあった時代でしょう。ボットン便所の世界であんなことができて、ボットン便所を探すのが難しい世界であれができないのはなぜ、っていうね。やってる人はやってるんでしょうけど、何でそれが俺じゃないんだ、という。

宅録しかできない環境で、ただアコギで曲作ってパソコンで音を足したりできるだけで、今もその延長線上で、そんな環境でも何かやらなきゃいけないような感覚がずっとあって。衝動的に「お家帰ってやらなきゃ!」みたいな。ちょっとスピってたのかもしれないですけど、「やらねば」というのがあって。
曲に関して言えば、最初の方とかは明確に、瞬間的なものにしか確信が持てなかったんですよ。何にも確信がないというか。色んな情報があるからってのもあるし、色んな人がいるっていうのも知ってるし、自分が間違ってるとも正しいとも限らない、っていうのがあるじゃないですか。っていうものすごくあやふやな中で、自分の一番確信めいたものが曲の中に現われるから、一生懸命、逃すな逃すな、何とかするぞ、形にするぞって感覚があったんですよ、最初から最近まで。それが今回のアルバムの感じになったと思うんですけど、それを使い果たしてるみたいなのも結構前からあって。
今回アルバム作るのも、しんどいっていうか、ものすごい残りカスみたいなのをかき集めて、何とか繋いでああいう形になったのをアルバムにして……さっき2ヶ月ぐらい空っぽになったって言ったじゃないですか、いま超空っぽなんですよ。実生活で色々あったのもあるんですけど、その確信めいたもの、根拠のないグワーッというものが今どっか消えてしまってて。そっから先、じゃあ何するんだろうって時に、多分二つ方法があって。定期的にそういうものの小さな種みたいなものは自分の中に現われてきて、こっから先、なんだかんだそういう瞬間はあるんですよ。それだけで作っていくのか、そうじゃない部分で作るのか。そういうことを出来るようにするんだったら……それをやるには、やっぱり宅録じゃないんですよね。自分が録音する時って、ヘタだからっていうのが大体の理由なんですけど、多分ワンフレーズ百回以上録り直してるんですよ。それをうまい人にやらせた時に案外ポッと出来ちゃったりもするんですけど、多分そうなったらそうなったで「ここをこういう風にしたい」っていうのを何回も何回もしたくなると思うんですよ。それをしたいなー、って。お金もらって良い環境でそういうことしたいな、って思ってるんですけど、それが甘えてるみたいな感覚って皆どこかにある……。

――甘えてるどころか、シビアな判断じゃないかと思いますけど。

そうですか? 働きたくねーんだよ、そういう環境じゃなきゃそういうのやれねーんだよ、みたいなこと言うと、「いやいや、やってる人いるから」って言われるんですけど。……音楽以外のことやってる人の何が偉いの? っていう……。何が偉いんだろう、全然偉いとは思わないです。そういうのができる人は器用だなって思うし、そういう人が趣味で音楽やってるのは全然いいと思うんですけど、そういう人から何も言われたくはない。そっちが思ってるよりこっちは生活かけてんだよ、っていう(笑)。
それとはまた別の、同人作家的感覚で音楽やってる、仕事と音楽両方あることに何の不自然もない人たちもいて、そういう人はスゴイなって思って。そういう人の音楽はプロが編集なりなんなりして、みんなに届くようにすればいいのにって思う。作業分担をすればいいって。
話ぜんぜん変わりますけど、体育会系的感覚を感じた瞬間に、何か、こう……。……体育会系が悪いんじゃないですかね、全部(笑)? ちょっと売れてるバンドの人に「売れるにはどうしたらいいんですかね」って訊いたら、「ライブをやって、たくさん飲みましょう!」って風に言われて、「うーん」って感じで。結局個人個人の繋がり……「繋がり」ってキモいな、偶然とか誰が気に入るかって話だから、それは分かるんですけど。そこに必要なものは、可愛げとかちゃんと挨拶をするとかじゃないでしょ、って。

――横沢さんの詞の中の《無敵》という言葉が……『僕ら無敵さ』のようにタイトルになってる曲もあるんですが、独特な響き方をしているな、と思って。『ハイロー』で言えば《無敵だったよな》と過去形で使われるじゃないですか。だからあの曲が「悲しい」という印象になるのかなと。『春へ』だと、たぶん失恋したからこその《無敵》になってるし、『僕ら無敵さ』だと現在進行形の《無敵》。同じ気分を指してるのかなと思ったりもするし、それぞれの気分なのかと思ったりもするし。特別な言葉とか、強い言葉という自覚のもと使っているんでしょうか。

特別というか、好きな言葉ではあります。「死にたい」の真逆の言葉みたいな感じなんじゃないですか(笑)。「死にたい」も幅広いっていうか……。

――「現状を全部変えたい」っていう「死にたい」もあるし、本当に「この世から消え去ってしまいたい」っていう「死にたい」もあるし。

そういうのもあるし、単純に「だりー」とか「天気が悪りー」とか「恥ずかしい」とか、色々あると思うんですけど。そういうのの真逆かもしれないですね。

――なるほど、そういうのの真逆……。腑に落ちる感じがします。全能感とも言えるんでしょうか。

まあ全能感もあるでしょうね。そうですね、『ハイロー』は……『ハイロー』はしんどいんです(笑)。

――ライブでも繰り返し仰ってましたね。

何か……後悔、したことないんですけど、『ハイロー』に関しては、生まれて初めて後悔を……。

――曲を作ったことに対して、ということですか?

曲を作ったことに対しての後悔も、あるというか……やっぱり何か、いや、そうか。それはないですけど、「後悔の歌」ですかね、初の後悔の歌。後悔って言っていいのか分からないけど……歌っててしんどくなるものを作ったことはなかったんですけど。
「これ、後悔の歌です」って、後で文字で見た時めっちゃ恥ずかしいんじゃないかと思うんで、ものすごい言うのをためらうんですけど、後悔の歌です。

――途中で入るトランペットっぽい音色の音もすごいですね、輝かしい感じですごく効いてるし。曲の中でもボーカルのエフェクトがかなり変わる。それこそテレコから流れてくるような音質のような……。

自分の中では明確な意図があるんですけど。悲しいし、後悔しててもものすごい穏やかな気持ちであったり、っていうのもあるし……。頭がカーッてなることであればあるほど、色んなことがあやふや、っていうか。やっぱ分かんないから考えるし、分かんないことって、何か一つで言い切れたりしないじゃないですか。そういうものだから、一貫性を持たないんですけど、曲の中で。フレーズであったりコードであったり。
でも不思議なことに、自分が聴く側になった時に、それを「良い」と思うんですよね。それを実際体験してる側は、その出来事を良いと思ってなかったとしても、聴いてる人は「良い」と思うであろう、っていう。

――だとしたら……本当にやるのはしんどい曲ですね。

そう(笑)。だから「これ聴いたら、誰か喜ぶっしょ」って気持ちがありますけど、「それどころじゃねえんだよ」ってのもあって。

――負の感情でしかないもので作品が作られて、それに誰かが触れた時にその人にプラスの感情を起こさせるっていうのは、いっぱいあるけど結構奇跡的なことだと思っていて。漫画家の萩尾望都なんかも、親との不和を作品に……。

『イグアナの娘』とか、そうですね。

――ご本人も「私はいくつになるまで親殺しの物語を書き続けるのだろう、と思っていた」というようなことを仰っていて。ストレスだったり、人生の煩わしさが作品に投影されていると思うんですが。

カウンセリングの構造を採ってると思うんです。『イグアナの娘』(小学館文庫)に入ってる『カタルシス』とか、あれも親子の問題で。あれが一番好きなんですけど。
問題を解決するためにまず逃避をする、見る人によっては甘えにも見える行為じゃないですか。けど、なんでそれをしてるかっていうと、そうせざるを得ないから。それを分かってくれる人が登場人物の中に現われて、それを主人公に喋らせるわけじゃないですか。何があったのか喋らせることによって現状を認識させて、両親に対して「自分はこうである」っていうのを告白させただけなんですよね。相手を否定した訳でも何でもなくて……ちょっとしてますけど。告白させただけ。それを相手は受け入れられなかった、だからそこに関してはバッドなんですけど、でも告白をしたことで自分を認識して、最後ハッピーエンドじゃないですか。
『ハイロー』はそういう意味で、カウンセリングじゃないんですよ、あの曲だけ。他はカウンセリング的な造りをしてると思うんですよ。『ハイロー』に関して言うと、あれを作った時点で本当は何も答え出てなくて、まあ今も出てないんですけど。ものすごい途中で終わってるというか(笑)。だからたぶん、終わんない感じがすると思うんですけど。だからやっててしんどいんですよね。でもそれが、変な話ですけど、答え的なものが『愛してみたり愛されたり』とかにあったりしますけどね、『ハイロー』より前に作った曲にあったりして。だから別になくてもいっか、っていう。

――『ハイロー』は、あっちの世界とこっちの世界を行き来してる感じがするんですよね。どっちの世界にも行き切らない感じが。

そうですね、実際まだ行き切れてない。行き切りたくないっていうのもあります。たぶん忘れちゃえば楽になるし、永遠に浸ってようって決めちゃえば楽になるんですけど、どっちも嫌だからああなった、というか。「どっちも嘘じゃん」って思って。