NOVEL[2017.02.16]
NOWHERE
Vol.01 7th floor

この小説はフィクションであり、登場するミュージシャンも架空のものですが、実在のライブハウスやミュージシャンと無関係ではありません。

 サンデードライバーズというバンドがいた。ぼくが高校一年の時、『センスオブサンデー』というアルバムでデビューして、フォークロック・リバイバルなんて呼ばれて結構流行ったバンドだ。
そのころぼくは、多くの十代がそうであるように、世界や社会の原則を大体理解していながら、その広さは全然分かっておらず、自分が大した人物だと思い込んでいた。そんなありきたりな妄想を、彼らは粉々にした。彼らの歌は、世界はぼくが思うよりはるかに広く、複雑で、堕落していて、それでも何とか美しいものであることを教えてくれた。
 ぼくは彼らの活動を追いかけて、彼らと近しいミュージシャンを知り、音楽が好きになっていった。しかし彼らは解散した。時を同じくして、ぼくは大学を出て働き出した。彼らがいなくなり、仕事に就くと、ぼくの足はあっという間にライブハウスから遠ざかった。
 彼らはもう一度活動を始める。オリジナルメンバーでライブをする。最後に買ったCDが何だったのか、すぐには思い出せなくなったこの秋に。



 大学生ぐらいの若者とティッシュ配りと外国人観光客のあいだを縫って、道玄坂を駆けのぼっていく。きっと二十四時間か四十八時間前は、うるさい人たちがひしめいていたのだろうが、月曜の夜七時のこの道には、ぼくが走るのを許すだけの隙間があった。
 ネクタイを押し上げるように、首の汗腺が開き始めている。初めての疾走に戸惑った革靴が、アキレス腱のあたりに靴ずれを作る。それでも腕時計を見れば、足を止められなかった。開演の時間が迫っている。無理して仕事を切り上げてライブハウスに走るなんて、社会に出てから初めてのことだった。
 目に入ったコンビニの窓に、「ライヴハウス近道こちら!→」という貼り紙が出ている。あれはぼくにとっても近道なのか? 初めて行く店だから確証が持てない。あんまり唐突に現れたので、訳もなく罠だと疑ってしまう。しかし酸素の足りない頭は、すぐに考えるのを面倒臭がりだして、もうとにかく従ってしまえという気になった。ぼくは速度を緩めないまま、貼り紙が示す路地に飛び込んだ。
 しゃにむに走る。涼しく枯れた空気を吸いながら。今ぼくは走らされているのだと強く感じながら。

 貼り紙に従って良かったらしい。目的地にはすぐに辿り着けた。会場は「セブンス・フロア」という名前の通り、ビルの七階にある店だった。同じビルの中に、O-EASTだかO-WESTだかも入っている。
 二基あるエレベーターのうち、右側の一基だけが七階に通じているらしい。近くに出演者の名前が書かれたボードが出ている。親友や恋人の名前と同じように心に彫り込んだ名前が、そこには記されていた。エレベーターに乗り込むと、走ってきた分だけの汗が吹き出した。脱げるものをなるべく脱ぐ。時計の針は、ちょうど開演時間を指していた。
 こんなに汗をかくほど急いでいながら、このエレベーターがずっと七階に辿り着かなければいいと、どうして少しだけ思っているのだろう? ライブに向かおうと移動していれば、身体のどこで彼らへの想いが脈打っているのか、感じ続けることはできる。ぼくはそれで満足なのかもしれない。
 当然、エレベーターはすぐに七階に着いた。ピアノの音がするが、人のざわめきの方が大きく聞こえる。今日のライブには前座が入るはずだが、どうやら開演に間に合ったようだ。もう誰も並んでいない受付で名前を告げて、代金を支払って入場する。ワンドリンク込み、二千五百円。
 着席制の会場とは知らなくて、少し驚いた。フロアには座り心地の良さそうな椅子や、小ぶりなテーブルが並んでいる。最後にライブに行った日はすぐに思い出せないけれど、座ってライブを観た時のことなら思い出せる。学生時代に彼女の付き合いで行った武道館だけだからだ。武道館には二回行って、アース・ウインド・アンド・ファイヤーと、東京事変を観た。
 後列に空席を見つけ、背もたれにジャケットをかける。激しくかいた汗が冷え始めると、新しい汗は湧いてこなかった。内装や調度品もさることながら、ステージ上のグランドピアノが、この店をライブハウスではなくバーとして認識させて、大汗をかいていることの羞恥をあおる。ぼくは本当に、ここにサンデードライバーズを観に来たのだろうか? ロックンロールとフォークとパンクを中華鍋で手早く炒めたようなあのバンドを、こんな洒落た店に? ステージでは一人の女性が、ピアノの椅子に腰かけて、マイクの調子を確かめている。彼女が前座を務める、友江繭美という歌手らしい。
 彼女が手を上げて、BGMが止んで照明が暗くなる。取った席の後ろにも人がいるので、ぼくは急いで座った。
「こんばんは、友江繭美といいます」
 客席から起こった拍手に、最初に感じたのは恐怖だった。こんな鮮やかで温かい拍手は、ライブに行かなくなってから久しく聴いていなかった。その拍手の優しい熱は、予約するまで彼女の名前さえ知らなかったぼくの体には、焼け火箸のように触れた。
「サンデードライバーズの昴さんにお話をいただいて、歌わせてもらうことになりました。昴さんとは何度も一緒にライブをしてるんですが、バンドで観るのは初めてなので、今日はとても楽しみです」
 昴というのは、サンデードライバーズのフロントマンでありソングライターである梅田昴のことだ。彼はバンドが解散した後、ソロシンガーとして弾き語りを続けていたが、ぼくは一度もそれを聴いたことがない。彼の歌は僕が愛すべき音楽だ。ただそれは彼のソロを観に行く理由にならなかった。
 それでは始めます、と言って、友江繭美は鍵盤に手を置いた。淡々としたイントロ、うつむいて目を閉じた顔から漏れるハミング。心の落ち着く穏やかな響きに、ゆったりとした気持ちで聴けそうだと安堵した。
 彼女が顔を上げて、歌詞をうたい始めるまでは。
 声を張ったわけではない。タッチが強まったわけでもない。しかし、声がことばの形を持った瞬間、映写技師が下手を踏んだように何かが寸断した。可憐で婉曲的な、しかしどう解釈しても残酷な現実を思わせる歌詞が、当然のように歌われる。ありふれた声。当たり前のピアノ。それが歌としてまとまると、冷たく不気味な異形に化ける。曲が変わっても印象は同じだった。メロディも、展開も、言葉も変わる。しかし、心がひしゃげてしまった近しい人が、泣きながら手を握ってくるような不安が、ずっと胸から離れない。
 それなのに、ぼくは加速度的に彼女の歌を好きになっていった。走ってきたせいで喉が渇いている。水が欲しい。喉を鳴らして水を飲みたい。それでも何かを見逃すのが怖くて、席を立てない。
 五曲か六曲歌っただろうか。彼女がぺこりと頭を下げると、名乗った時より明らかに熱を増した拍手が起きた。そういえば彼女は、サンデードライバーズを生で観たことがないと言っていた。見た目では判断がつかないが、ぼくよりも年下なのだろうか。
「ありがとうございました。最後に、昴さんとよく話す、大好きな曲のカバーをやって終わります」
 そう言って彼女が始めたのは、ジャムの『ザッツ・エンターテインメント』だった。ジャムはサンデードライバーズ全員が共通して好きなバンドで、ぼくもそれを知って以来よく聴いていた。
 シンプルに和訳した詞を優しく歌う友江繭美は、少女のようにも、ぼくよりずっと年上にも見えた。CMで使われるカーペンターズのそれのようなカバーではなく、愛と技術が傾けられたカバーは、ミュージシャンの核を垣間見させる。彼女に魅力を感じる理由がやっと分かった。彼女の歌の哀しみは、子供のころに感じた、まだ言葉にできなかった哀しみに似ているのだ。こんな人、昴さんが気に入らないわけがない。
 終盤の「恋人たちの夜更けのキス ほんとはふたり終わりにしたい」というフレーズを聴き、数か月前に別れた彼女のことをほろ苦く想いながら、ぼくはライブの中でミュージシャンへの理解を深めていく面白さを、確かに思い出していた。

 ビールを頼むため、ぼくはカウンターに並んだ。喉の渇きはもちろん、生姜を摂ったかのように歌で火照った精神に、ビールは快をもたらすはずだった。何となくメニューに視線を滑らせた時、「カレー」の文字が目に留まった。店名とかかった「七階バターチキンカレー」というネーミングに心惹かれ、ビールと一緒に頼む。昼から何も食っていないのと、ここに来るまでの運動で、腹はかなり空いていた。
 「カレーはお席までお持ちします」と、ビールのグラスと番号札を渡された。席へ辿り着く前に、我慢できず、グラスに口を付ける。勢いに任せて半分を飲み下すと、空っぽの胃に時化が起きた。炭酸とアルコールが逆巻くちょっとした嵐が、友江繭美の歌の残響を飲み込んでいく。息をふっと吐くと、舌の根に淡い苦味がきらめいた。
 消化器を通さずすぐ血に溶けたようなビールの酔いが、ぼくの緊張と記憶を、単純な期待へとすり替える。ほぼ十年ぶりに観るサンデードライバーズ。アルバムを出すごとに冴え渡っていった詞と曲と演奏、引き換えに失われていったやさしいルーズさ。解散直前の不和に近い空気。彼らの音楽とMDウォークマンが、ぼくの高校時代を救いのあるものにしてくれた代わりに、彼らの解散は、お前の青春はここまでだというお節介な線を白々と引いた。
 今でも角の取れていない思い出に、急場しのぎの養生を施して、ぼくは席に着く。友江の出番から少し間を置くつもりなのか、ステージには(ドラムセット以外の)楽器さえ姿を見せていない。残りのビールを飲み干す早さにだけ、緊張の名残りがあった。
 しばらく待つと、カレーが届いた。ひとさじ掬うと、バターの分厚い香りが立ちのぼる。辛味がないことに驚いたが、旨いことに疑いは要らなかった。舌をひりひりさせながら食べるのをやめられないあの楽しい速さではなく、油くどくない淡々とした旨さで手が止まらない。ふと思いついて席を立ち、赤ワインを頼んでみた。予想通り、まろやかなカレーソースはワインの複雑さと喧嘩せず、それぞれの甘味と酸味が楽しめる。柔らかい鶏を噛み、ワインを飲むと、甘く濃い酩酊が身体に広がりはじめた。
 カレーの皿を返し、ワインの残りを舐めていると、背後からまばらな歓声が上がった。顔を後ろに向けたちょうどその時、ぼくの真横を誰かが通り過ぎた。視線が後ろへ走り、その人がぼくの前へ歩いていく真逆の動きによって、ぼくの目はぼけた像しか捉えなかった。
 それなのに、首を動かしている時から、その人が梅田昴だということが分かっていた。その後に、ベースの芝勇二、ドラムのサトルが続いていた。歓声の起こる原因が彼らの入場をおいて他にないことぐらい、少し考えれば分かることだが、ぼくは推測するより早く「彼らはサンデードライバーズだ」と確信していた。その確信は早く、まるで予知のようだったが、実際には単なる期待でしかなかった。ぼくは彼らをずっと待っていたのだ。
 下手になっているのが恐かった。大好きな曲のアレンジが変わることも、不仲が覗くことも、小遣い稼ぎとか同窓会でしかないライブを観るのも恐かった。それでもぼくは彼らをもう一度見たかったのだ。
 サウンドチェックを始めたサンデードライバーズに、歓声や拍手を送る観客が何人もいた。リズム隊の二人は軽く手を上げてそれに応えたが、梅田昴は照れ笑いだけを浮かべていた。合図がいざなったのではない、ばらばらに起こった声や拍手は、生き物のように会場を走り回った。昴さんの笑いは、それにじゃれつかれてくすぐったがるような表情でもあった。
 ぼくはここが都心の地上七階であることをふと思い出したが、もう少し高いところにいるような気持ちになった。建物の中にいると言われるより、そこらのビルにはぶつからない低空を飛んで、二十三区内を遊覧していると言われた方が、ずっと真実味があった。
 程なくして昴さんが大きく手を上げると、BGMが止み、照明が暗くなった。
「お久しぶりです、サンデードライバーズです」
 溢れ返った拍手と歓声に、三人は一度だけうやうやしく最敬礼をして、顔を合わせて頷き、演奏の姿勢を取った。
 イントロのギターのアルペジオが始まった瞬間、押し出されるように涙があふれた。『最高の電話』という曲だった。好きな子と電話で交わす言葉の甘さを、気恥ずかしさまでひっくるめてストレートに歌いあげる歌。ファーストアルバムの中で、ぼくが一番好きな曲だった。
 歌と演奏は、今もなお若々しいままだった。すごく上手くはないけれど、優しさと荒々しさが一瞬で入れ替わる歌声。気持ちよく乾いたギター。曲を複雑にするベース。一打一打の音が遠くまで飛んでいきそうなドラム。全てが昔のように躍っていた。
 初めて聴いたアルバムの一番好きな曲を初っ端にやられて、これはぼくのためのライブかと勘違いしたくなって、ワインの残りを一息に飲んだ。一口舐めるのでは感じ切れなかった果実味が頬の内側を締めつけて、酸味に心までがすぼむ。
 サンデードライバーズは拍手の暇をぼくたちに与えず、矢継ぎ早に曲を続けた。シングル曲も隠れた名曲も織り込んだ、充実のセットリストだ。新しい涙を必死で堰き止めながら、彼らの姿を目に焼き付けようとしていると、興奮から過剰なところがふっと消え失せて、ぼくはステージの特色に気付き始めた。
 フロアとほとんど高低差のない、客との距離も近いステージ。そこから一番鮮烈に聴こえてくるのはドラムの音だった。ただでさえ警笛のように音を炸裂させるサトルさんのドラムに、体が後ろに傾くような迫力が宿っている。ドラムがどれだけ空気を震わせているか如実に分かるからこそ、ギターのひずみやベースのたゆたいが、全体の中でどう輝いているかもよく分かる。その中で、耳や感情だけではなく、理性や個人的な記憶にまで突き刺さる唯一の音が、歌なのだということも。
 『最高の電話』『ニュータウンまで』『10月10日』『カスタード』『珈琲飲みの憂鬱』と演奏して、彼らは手を止めた。久しく彼らの歌を聴いていなかったのに、すらすらとタイトルを並べられる自分を、ぼくは少しだけ誇りながら強く拍手した。昴さんが「ありがとうございます」と言うと、観客の反応はぐっとボルテージを上げて、メンバー全員が笑みを浮かべた。
「えー、一度解散しておきながら、また始めてしまいました。でもきっと、焼き直しじゃない、また始めたから出来るってことをやっていきます。ライブもやるし、アルバムも今作ってるので、どうかまた気にかけてやってください」
 昴さんがそう言うと、「お帰り!」という声がいくつも起こり、柔らかい拍手が会場を満たした。サトルさんが椅子から立ち上がり、子供みたいに大きく両手を振って、皆の笑いを誘った。昔と同じ、レッド・ツェッペリンのTシャツが懐かしかった。
「ありがとうございます、じゃあ次の曲です……」
 昴さんが一呼吸置いて弾き始めたリフに、ぼくを含めた何人かが声を上げた。
『モデラート・カンタービレ』。最高傑作と名高いサードアルバムのタイトル曲。バンドとしての円熟を表現する大曲だった。暖かで、少しだけ哀しい歌詞とメロディ。ソロというソロがないのに、全てのパートの印象が残る構成。優しさと明るさを想起させるミドルテンポ。音源に入る前も、入った後も、ライブで何度となく聴いた歌だった。少しずつ流れていく時間の尊さと、特別な一瞬を抱きとめることが出来た時の幸福を謳った、ぼくの知るかぎり最も優しく美しい歌。この歌のように生きそびれた自分を、何度も慰めてくれた歌。
 昔、この曲を聴く間、時々そうしていたように、周りを見回した。見知らぬ人たちが、色々な表情をしている。隣の若い男は声を出さず、唇の動きだけで歌詞を紡いでいる。その向こうのソファに腰掛けた初老の男は、目をつぶり、足を組みながらリズムを取っている。斜め前に座っている女性は、表情こそ見えないがずっと口元に手を当てて、泣いているかのようだった。彼らへの共感が優しく暴れ出す。
 今この時と、かつてこの曲を聴いた全ての時とが、境目を失った。多分、ぼくは今、十年前のぼくと会っているのだろう。話すことも抱き合うこともできないし、そのぼくは今のぼくを分からないけれど、ぼくには彼がよく分かった。
 最後のサビに入る前の間奏を聴きながら、ぼくはステージを強く見つめた。忘れていたことは、きっと全部思い出した。音楽に胸が震えること。自分のまなざしが力を持つこと。そうして見たものが何の担保も与えてくれなくても、ぼくが美しさや優しさをそこから汲み上げることはできるのだということ。
 大サビの後に続く、虹のようなコーダを聴いていると、ぼくは掌に痛みを感じた。知らぬ間に、拳を強く握っていた。爪痕は何だかキスマークじみていて恥ずかしかったが、胸の中に起こったものは恥なんかよりずっと大切だった。
 ステージの三人が同時に手を止めて、それぞれの楽器の残響が、ほとんど同じように収束していった。完全な無音が訪れ、それから一瞬の間を置いて、万雷の拍手が巻き起こった。

 ライブが終わり、呼吸も落ち着くと、すぐに帰り支度を始めた。酒を頼み続ける人たちが多くいて、ぼくもあと一二杯飲んでいきたくはあったが、明日も早く起きねばならない。何より、早く一人になることで、感動が薄まらずに済むような気がした。
 入場料を払ったテーブルの所まで来て、バルコニーがあることに気付いた。喫煙所になっているらしい。ぼくは煙草を吸わないが、何となく外に出てみた。屋上が見えるような低いビルもあれば、道玄坂の様子を見せてくれない高いビルもある。
 バルコニーも、周りのビルも静止していた。今夜の遊覧飛行は、もう終わったのだ。
 中に入る時、芝さんとサトルさんが入れ違いにバルコニーへ出てきた。すれ違いざま、驚きと緊張が心を走ったが、ちょうど一人の女性がエレベーターに乗り込もうとしていた。エレベーターに駆け寄る間に、動揺は消えてしまった。
 女性はドアを開けて待ってくれていた。多分、ぼくの斜め前に座っていた人だ。お礼を言いながらエレベーターに乗り込む。一階に着き、今度は自分がと思って「開」のボタンに指を伸ばすと、彼女も同じことを考えていて、指が触れそうになった。二人とも慌ててしまい、ドアが閉まる前に、結局ぼくたちは急いでエレベーターを降りた。
 気まずさより、おかしさの方が少し勝った。ぼくが苦笑いしながら会釈をすると、彼女も同じ反応を示した。彼女はさっさと歩いていったが、ぼくは今の一瞬を忘れたくなくて、視界から消えるまで彼女の後姿を見ていた。
 ビルを出ると、近くのライブハウスから出てきたばかりなのだろう、秋も深まっているのにTシャツ一枚の人たちが、ほかほかした声で話し合っていた。ぼくは昔、彼らのようにライブハウスから出てきたことがある。彼らの姿は、昔のぼくとこれからのぼく、どちらにより似ているのだろう? そう思いながら、駅へと歩き出した。
 何駅も離れた家まで、歩いて帰れそうな気がしていた。靴ずれが少し痛いけれど、それをものともさせない何かが、腹の底から湧き上がってくる。貼り紙に従って飛び込んだあの人気のない路地にさしかかった時、意味も必要もなかったけれど、ぼくは少しだけ走った。



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オオクマシュウ
野良小説家。埼玉在住、うお座のO型。でかいので、待ち合わせ場所として重宝されている。最初に買ったCDはミスチルの『I'LL BE』、最初に買ったレコードはア・トライブ・コールド・クエストの『Jazz(We've got)』とRUN DMCのベスト(たぶん)。

写真はライジングサン・ロックフェスティバル撤収時のひとコマ。物々交換を終えて村に帰る途中とかではない。

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